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第三回「奈良の心を聴く」令和五年二月九日開催

 

「奈良の心を聴く」と題して、2月9日の夕刻から、奈良は猿沢池の近くにある「ホテル尾花」にて講話と聴き込み寺の会を開催いたしました。今回はそれに関するお話です。


 この会を始めるに至ったきっかけはオンラインでの聴き込み寺の開催でした。


 聴き込み寺とは、私、大仙が個人的に開催している路上傾聴活動のことで、横浜駅の西口を中心に池袋や奈良など各地に出没しては人の話を聴いて回っています。


 一度オンラインで開催し、その際にホテル尾花さんのスタッフの方がご参加くださったのです。その方が「この体験をもっと多くの方にしってもらいたい」と言ってくださったことからホテル尾花さんの会議室をお借りして開催するに至りました。


 それも今回で三回目。だいたいいつも午後五時に始まり、一時間半は講話として修二会や仏教についてのお話をします。今回は「神名帳」についての考察と、SNSに投稿したお道具についての補足などを中心に解説を行いました。


 かなりマニアックで、熱量の高い講話になっておりますので、ついてくるのに体力を要したのではないかと振り返ってみると反省しきりですね(汗)


 後半は午後七時から九時頃まで「聴き込み寺」と称して、参加された方の心のモヤモヤや、引っかかっている事柄、ずっと溜め込んできたことなどを聴き込みます。


 今回は九名の方が参加され、うち三名がお話をしてくださいました。のこりの方は何もしないのか?というとそういうことではなく、この場を作り、共に聴いていくことで、話者と私の会話に参加していくのです。


 一通り聴き終わった後に、他の参加者も感じたことや思ったことをお話する時間を設け、それを皆で共有することでまた新しい気付きや癒しの場が生まれるのです。


 そして当然ですが、お話するテーマも雰囲気もその会ごとに全く異なります。今回は「母親の看取り」についてのテーマを扱いました。


 長年介護をして、最後まで看取ろうと決意したにも関わらず、最期の時だけ何故かタイミング悪く病院からの連絡に気づかず孤独に逝かせてしまった。その無念と、申し訳無さが心に残り続けているのだと。


 僧侶として人と接する時、この「死」に触れることは少なくありません。しかし、私が触れることができるのは「死」そのものではなく、「それに直面した人」の「心」なのです。


 それを見間違えると、心は離れていってしまいます。今回のテーマでも、お話してくださった方が今感じている気持ちや心のあり方に触れ、共にその場にいることで凝り固まっていたものをほぐすお手伝いをさせていただきました。


 話している時には目線は床を這い、涙を流しながらお話をされていました。見ている参加者はそれが悲痛に感じたかもしれません。他の方も共感して、涙を流されていました。


 しかし、それは嫌な時間、苦痛な時間ではなく、とてもとても大切な時間なのです。


 私はこういう話を聴いたことがあります。ある女性の方がお母様を亡くされ、葬儀の喪主を務められた。しかし、その悲しみは大きく涙が止まることはありませんでした。


 それを見たお坊さんが「喪主なのだからお母様のためにいつまでもメソメソするのではない」とおっしゃったそうです。これは正しい言葉でしょう。


 しかし、彼女は非常にショックを受けてしまいました。母のために悲しんで涙を流すことはいけないことなのかと。


 僧侶は、多くの死に出会います。そうすると死はどんどんと希薄化していきます。人はいずれ死に、この身もいつか塵と消える。仏教は世の無常を説きます。しかし、それは死が決して軽くなることを意味しません。死を悲しんでいけないということを意味しません。


 悲しみに囚われ、その身が苦しみの沼に沈み込んでしまうことを助けることを意味します。悲しみは決していらない感情などではありません。その悲しみを十分に味わうことが何よりも大切な時間になります。


 しかし、それは一人では難しく、心細いものです。今回の会では私と、そして八人の参加者が共にいてくださいました。だから、安心して自分の感情に触れて向き合うことができたのです。


 この方法は路上傾聴ではできません。しかし、路上での傾聴はその入口になりえます。この会には、路上傾聴からご縁を得て参加された方が何名もいらっしゃいます。この双方の活動を続けていくことが、一つの私の修行であり、仏教の実践の道であると感じています。


 今後は横浜でも、同じように路上傾聴と集まっての会を開いていきたいと思いますし、奈良でも引き続きこのご縁を大切にして参りたいと思います。



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