(前回の続き)茶湯供養について
さて現在、「茶湯寺」と調べると前々回のブログで書いた駐車場から大山ケーブルカー駅までの道中にそのお寺を見つけることができます。
階段の途中にこのように案内の「ちゃとうてら」の石碑があり、少し道を外れるとそのお寺を見ることが出来ます。
こちらは浄土宗のお寺で、誓正山茶湯殿涅槃寺と言います。私も今回初めて訪れましたが、趣のあるお寺で、残念ながら中に入ることは出来ませんでした。
本尊は涅槃仏で、茶湯の供養も受け付けているようです。しかし、前回お話した茶湯寺とはもちろん別の寺院で宗派も違います。(来迎院は真言宗)どのような関係であったのか、詳しいところは調べることが出来ませんでした。
この涅槃寺で茶湯供養が行われるようになったのは明治以降のことです。なぜそうなったのか。そこには「前不動明王」の扁額も関わってきます。明治になって廃仏毀釈と修験道廃止の波は大山を大きく揺るがしました。そこには何百年に渡って積もり積もった淀みも要因としてはあったようですが、あまりにも複雑なので今回はその点には触れないことにします。
しかし、その大きな波は大山にあったお堂のほとんどを跡形もなく消し去りました。神仏分離によって大山は神社の管理するところとなり、大山寺の本堂などがあった場所には阿夫利神社下社が建てられました。江戸時代以前には祀られていた石尊権現は廃され、新たにオオヤマツミなどの神々が勧請された。現在では綺麗に整備され、多くの観光客で賑わっております。
最近、静岡の浜松にある秋葉神社にお参りに行きまして、本当は上社と秋葉寺もお参りに行きたかったのですが時間が遅く下社のみのお参りになってしまいました。
調べてみると、この神社も明治期になって建てられたものだそうで、それまで信仰されていた秋葉権現は廃され、新たにカグツチなどの祭神が勧請されたという。神社からも眺望は美しく、その写真を見たときには大山阿夫利神社を思い出さずにはいられませんでした。
さて、ここからがややこしいところです。お山が神社の管理するところとなることで何が起きるかというと、死穢の排除です。どこからが聖域となるのかと問われた時に挙げられたのが、前回のブログでも紹介した追分け社。現在の八意思兼神社です。
此処から先を聖域とされてしまったため、来迎院で亡くなった方の供養などもできなくなってしまいました。そして、この追分けの位置には前不動堂があったのです。そして、この前不動が現在の来迎院とされる場所に移築されたという。そして、前不動堂にあった不動明王と二童子の像は大山寺へと移された。ややこしい。
さらに来迎院というお堂は最近になって新しく建てられたようで、大山への参道のだいぶ下の門前町の方に大山寺菩提所として建てられているようです。この場所はかつて観音寺があった場所で、石尊権現の本地仏である十一面観音様を本尊としたお寺でありました。この観音様は行基の作と伝えられ、開扉こそされませんが現在でも大山寺の本堂に安置されているそうです。
そして、現在の大山寺は明治に来迎院の跡地に建てられた明王寺と、この観音寺を合併して雨降山大山寺として出来上がったということになっております。これもややこしい。
大山というのは神奈川県民にとって大きな心の拠り所となる信仰の山であります。信仰は人がいなければ成り立ちません。そして、人が集まれば集まるほど信仰は濃く複雑に変化していきます。それは、現在も同じことで、特にここ最近はその動きの激しさに自分の立ち位置を見失ってしまいそうになります。強い芯を心に持つことが肝心なのでしょう。
補足になりますが、大山への別ルートである蓑毛にも「茶湯殿」というお堂があります。こちらも茶湯詣りに用いられているそうです。こちらの本尊は地蔵菩薩ですが、お堂のなかには閻魔大王を始めとする十王に奪衣婆像や鬼など地獄を表す仏像群が。
大人から見ても恐ろしく、子供の頃に連れてこられたらトラウマになりそうなほど…。こちらのお堂もかつては修験者や密教僧で賑わっていたようです。現在では本堂の大日堂とともに、禅宗の寺院が管理してくださっています。(こちらのお堂は普段、閉じておりますが11月の御縁日には一般開放されます。詳しくは秦野市の教育委員会のページをご参照ください。)
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