回から少し間が空いてしまったが、大山のお話の続き。今回は、良弁上人感得の龍神のお話です。
前回、前々回と大山にあった「来迎院」とそこで行われていた「茶湯参り」についてお話してまいりました。今回はそのお堂の横にある小さなお堂のお話をさせていただきます。
このお堂の由緒は看板によれば以下のとおりです。
龍神堂(八大堂)
元は二重滝にあり、寛永十八年(1641年)に再建、三代将軍の徳川家光公により寄進される。
奈良時代に、大山寺別当の良弁僧正が大山龍神を感得す。
以後、八大龍王と呼び大山の守護神にして雨乞いの本尊なり。
~数々の龍神伝説あり~
しかし、このお堂の扁額を見ると「倶利伽羅」の文字。もはや何が正しいのかわからなくなる。
しめ縄が張られていることからも仏としてではなく「神格」をお祭りしていることが伺い知れる。看板にある「二重滝」とは、現在の阿夫利神社下社の手前の道を東の方へと進んだ先にある落差10mほどの滝のことである。
二重滝
「二重」という名前の通り、二段になっている滝である。ここは禊の大滝、良弁滝などと並んで滝行の道場として栄えた行場であったという。水量は少なく、直瀑でもないため打たれるには少々心もとない滝場でもある。流石に入ったことはありませんが、いつか打たれたいと…。
さて、大山といえば雨乞いの山として有名で、「阿夫利神社」も「雨降り」の音から取っていますし、現在の大山寺の山号も「雨降山」です。
そして雨乞いといえば「龍」。空海の神泉苑での雨乞いに始まり、水天供など雨乞いと龍神信仰は切っても切れない縁があります。そういう意味では雨降山に龍神が勧請されていることに何の不思議もないのですが、時代を考えるともう一捻りしても良いのではないでしょうか。
先述のように密教による雨乞いが行われるようになったのは中世以降である。全国のいたるところに伝わる清瀧権現も空海が中国で出会い日本にやってきた後、醍醐寺に住み着いてからその存在を知られるようになっていった。
では、奈良時代の仏教者にとって龍神とは何だったのだろう。改めて看板の文言を見てみよう。
「奈良時代に、大山寺別当の良弁僧正が大山龍神を感得す。
以後、八大龍王と呼び大山の守護神にして雨乞いの本尊なり。」
八大龍王は法華経に登場し、眷属の龍を従え仏法を守護します。その信仰は全国に広く伝わっており、祈雨止雨の祈願が行われたり、先述のように仏法守護の観点から鬼門に置かれることもあります。
この「龍神を感得す。以後、八大龍王と呼び」の部分であるが、奈良時代において八大龍王を祀ったことで有名な人物がいる。それは「役行者」。
大峰山、山上ヶ岳の入り口である洞川。修験者の一大拠点であり、大峰修験の出入り口となっている禊の道場として力のある「龍泉寺」の縁起によれば、役行者が泉の湧くこの場に八大龍王を祀ったという。
現在でも八大龍王が祀られている場は修験との関係が深い場所が多い。埼玉にある秩父今宮神社なども役行者によって八大龍王が祀られたという伝承が残る。当山でも静岡県の山中の妙法不動滝にて感得し、それ以来お祀りしている。(写真は井川の妙法不動滝)
井川の妙法不動滝
なぜ、八大龍王なのか。当時はまだ体系化された真言密教(中期密教)が入ってきていないことから、龍と関連する経典として法華経の中から八大龍王が選ばれたのではないかと考えるが、そうすると龍を起請することが前提であったと考えられる。
加えて、八大龍王は八人の龍王の総称とされるが、私達日本人が「八」と「龍」の組み合わせを見て思い至るのは、中国風の八人の龍王でなく「ヤマタノオロチ」ではなかろうか。
そう考えると、八大龍王が日本の土着信仰と仏教の融合である修験道において八大龍王が信仰の対象として選ばれたのは自然な流れだったのかもしれない。
奈良県には八大龍王を祀る社は他県に比べて多い。(大阪も多い)ただ、「奈良時代の八大龍王」に関する文献はすぐに見つからなかったため、今後も調べていきたい。
そして、この伝説は、良弁僧正の修験者としての一面を垣間見ることができるお話の一つなのではないだろうか。また、良弁僧正は笠置山を訪れており、弟子の実忠和尚も笠置山で並々ならぬ経験をされている。役行者に影響を受けていないとは言い切れない。
また東大寺三月堂前の池にある小さな社。Googleマップによれば「龍神」とある。いつも不動堂に向かう際にはお参りしているものの実のところ詳細は分からない。せっかくの機会なので今後調べて行こうと思うが、今回のブログの内容につながるような発見があれば面白い。もし、なにかご存じの方がいらっしゃれば教えていただきたい。
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