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東大寺 開山良弁僧正1250年御遠忌法要


 あの看板を見かけたのはもう2年も前になる。


『令和五年十月厳修 開山良弁僧正 千二百五十年御遠忌法要』


 良弁僧正は華厳宗大本山東大寺の初代別当であり、日本華厳宗の祖とされる人物である。その出身は諸説あるが、私は相模国説を推している。さらに言えば鎌倉出身だったらいいな説を推している。だったらいいなである。


 これは由比ヶ浜にある染屋太郎太夫時忠の石碑にも書かれていることである。染屋太郎太夫時忠は豪族で「藤原鎌足の玄孫に当り、南都東大寺良弁僧正の父にして」とある。さらに「文武天皇の御宇より聖武天皇の神亀年中に至る間鎌倉に居住し」とあるのだ。


 良弁僧正といえば鷲にさらわれた逸話で有名であるが、この「鷲にさらわれる」という物語は良弁僧正が初出ではない。『日本霊異記』には類似の物語が登場するのが最も古いもののひとつだろう。しかし、この物語は良弁僧正のものとして知られ、全国に類似の物語が多く作られた。


 件の染屋時忠もその例にもれない。例によって子供を攫われてしまう。しかし、そのエピソードも子供が男の子のパターンと女の子のパターンがある。しかも女の子の場合は探し求めた末に残念ながら亡くなってしまったという悲しい物語。男の子の場合は皆さんもおわかりの通り良弁僧正となり、数十年後に再会されたというものだ。



 このようなエピソードは神奈川県にある良弁僧正の開山とされる大山の『大山寺縁起』にも書かれている。これによれば相模国の国司であった大郎大夫時忠が、如意輪観音像に子宝を祈ったところ、男の子が生まれたが、湯浴みしている時に、金色の鷲にさらわれてしまったとある。


 良弁僧正開山と言われるお寺は、神奈川には大山寺のみならず葉山にも玉蔵院というお寺がある。こう見ると、やはり由比の近くに両親がいらしたのではないかと。


 さて、今回の法要は久しぶりの大法要である。私自身、法要を見たことはある。特に覚えているのは大仏開眼の1250年の記念法要で、私は小学六年生であった。当時の私は中学受験を控えており、塾のために法要を途中で退出しなければならなかった。


 というより、私は当時の塾(の友人たち)がとても好きでどうしても休みたくないとごねたのだ。しかし、よくよく聞いてみれば50年に一度の大法要というではないか。


 私と共に横浜へと帰らねばならなかった母親はまた参列できるかわからない。近鉄の特急に乗りながら、「悪いことをしてしまったな」と罪悪感を覚えたことは今でも鮮明に覚えている。



 私が出席するのはそれ以来なので、実に21年ぶり。写真では見たことがあったが大仏殿は五色の幕で美しく飾られていた。


 ちなみにこの五色幕、私は気づかなかったが当山がまだできる前、「普賢光明会」という説教所であった時に勧進に参加していたようで幕の裏には名前が。



 法要は3日間に及び、それぞれ行列を含め3時間を超える。朝、東大寺の南大門の横にある天皇殿と呼ばれるお堂に出仕者は集合し、行列を作って大仏殿へと向かうのだ。


 8時頃に大仏殿の裏手にある駐車場に着くとたまたま福岡の眞龍雲寺の佐藤慧海住職、同寺の佐藤慧雲師、平等寺の蠣原法勝住職にお会いし、そのままご一緒して天皇殿へ。


 さて、初日は侍僧というお役目。19歳の時、初めて五月の聖武祭に出仕して依頼のお役目です。この時に着る法衣は真っ白の絹の生地に、紫の五条袈裟。



 法衣には僧綱領と呼ばれる三角形の襟が付いているため普段着ている法衣とはひと味もふた味も違う。修二会の重衣などもこれを立てて用いていたが、今回は折ってあります。薬師寺の花会式などでも折って使われている。


 大仏殿までの行列は下郎順で僧階の低い者から先に出発。当然、管長猊下は一番最後。そして私はその後ろ。ある意味目立つポジションかも。天皇殿を出発し、南大門を横からグルっと回って改めてくぐる。


※令和3年12月16日撮影



 ご遠忌法要の表札もだいぶ年季が入ってきている。これを始めてみたのは令和三年(2021年)のこと。良弁忌(12/16)の後だったろうか。「二年後かぁ、遠いなぁ」としみじみしていたにも関わらずあっという間の二年であった。


 南大門をくぐると、大仏殿の中門までの参道が一直線に見える。行列は長く、稚児や僧兵、雅楽を奏でる楽師、そして華々しい法服に身を包んだ僧侶。その両側には人垣ができており、皆一様にスマホを構えている。その最中にいると実に不思議な気持ちになる。


 管長猊下の後ろに付いていくと、多様な景色を見ることができる。少なくない人がお輿の中を覗こうとする。一方で手を合わせて礼をする人もいる。それまでカメラを構えていた人も、背筋を伸ばし礼をする。



 この法服を着て、この場に立つということは、この奈良の東大寺が積み重ねてきた研鑽と信仰をその身に表すことである。それを意識しないと、まるで人気ものになったかのような気になってしまう。一方でそれを意識しすぎれば固くなって動けなくなってしまうだろう。適度に、中道に。


 大仏殿の中門をくぐると管長猊下は輿から下りて、向かって右手のスペースへ。そこで舞楽『庭上一曲』を奉じていただく。その間も後方に控えているのだが、ある人がその様子がまるで四天王のようだと写真を撮ってくださった。



 菩薩道を歩まれる橋村管長を護るかのように険しい表情で仁王立ち。素晴らしい構図で撮られたなぁと感心しきり。舞が終わると、管長猊下から大きな綿を下賜される。という作法らしい。



 それから八角燈籠の前に用意された舞台へと移り三礼。大仏殿の観想窓が空いており、大仏様のお顔が見れないだろうか?と目を凝らすも、外が明るすぎるせいかなかなか見えない。


 その後もつつがなく法会は進行していく。ちょうどすぐ後ろに春日大社の大太鼓があり、大音聲を大仏殿に響かせていた。どおん、と鳴る振動がなんとも体に心地よい。


※二日目はこのような法服で参列



 散華を撒く際には、式衆のみならず大仏殿の屋根からも散華が舞い散る。それはなんとも幻想的で美しく見る人からも歓声があがる。 


 この日は華厳経の小品別訳とされる『顕無辺仏土功徳経』の論議と読誦が行われる。ちなみに二日目は論議はないが「梵音」「錫杖」が追加され、般若心経と如心偈の読誦。三日目は『華厳経』に関する論議が行われた。


 論議は問者に対して講師が答える形式で進められる。そしてこの法要において問者は舞台の上で暗記した文言を奏上せねばならない。


 この日は東大寺塔頭の上之坊住職である平岡慎紹師が問者。非常にハスキーでよく通る声をされており、庭内にもニコ生にもよくよくその声が響き渡った。ちなみに散華や読経でも特徴的でよく耳に残るお声をされておられる。


 論議はとても古い形式の法要であるそうで、詳しい歴史的な意味や流れは存じ上げないが、その内容をよくよく聞いていると経文の講釈など非常に興味深い内容になっている。機会があれば読ませていただきたいものだ。


 また、この日も献花・献茶が散華に並行して行われていたが、私の座っていた席からはお茶のお手前の様子が非常によく見えた。


 これはまさに役得ではなかろうか?お家元の作法を目を皿のようにして見させていただくことができた。このような機会に出会えたことはこの上ない財産であることよ。



 読経が終わると回向文を唱え、また舞台で三礼して戻る。帰りは上郎順となり、管長猊下のお輿を僧侶の先頭にして天皇殿へと戻り、そこで着替え解散となる。この日は九時半の出発から、戻ってくるまで実に三時間半かかった。非常に長い法要だ。


 にも関わらず多くの方が出仕され、随喜された。これは多くの人々によってこそこのお寺が支えられているということを示している。


 このように人の心によって成り立つお寺を作っていかねばならない。この大きなお寺でさえそうなのだから、私のお寺のような小さいところはなおさらである。


 改めて身を引き締めねばならい。そうしみじみと感じる法会への参列でした。


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