本日は5/22(日)。早朝より、神奈川県愛川町にある瀧にて滝行を行った。
当山では三十年以上に渡って滝行を仏道修行の実践として行ってきました。その中には本当に多くの悩みや思いを抱える方が訪れ、合う人合わない人、大きな気づきを得る人、何となく良い気分になって続ける人など十人十色です。
先日、私は滝行について簡単な心理学的な研究を行い滝行が不安などを含むネガティブな気分を軽減し、対人関係への興味を増進させる効果が見られるという結果を見出しました。
しかし、それは滝行に伴う豊かな経験のうちの一つに過ぎません。それこそ、滝の中で感じることは人それぞれ、十人十色です。
そんな中で、今日の滝行にて私が経験したことを少しお話します。
この日の入行した「塩川滝」は落差15mほどの大きな直瀑の滝で、水量も多く目を開けているのがやっと。
頭と肩には容赦なく大量の水が降り注ぎます。参加者は私を含め12名。うち女性は3名。みな、何度も滝に入っているベテランの行者ばかり。
五月に入って気温も大分上がってきたとはいえ、まだ日が昇ってまもなく、渓谷のようになっている滝場は気温が上がりにくい。ひんやりとした空気に身が引き締まります。
また、新緑が美しく、多くの生き物が息づいているのを感じます。これからの時期に元気になるカタツムリが、小さい身を必死に這わせていました。
塩川神社での参拝を終えると、観瀑台の下へと潜り込み滝壺へ。川へと足を踏み入れると心まで伝わるような冷たさが身を刺します。
今となっては慣れたものですが、学生の頃などは「やめておけばよかった」という言葉が心の中に浮かんできたものです。
一通りの作法を終えるといざ入行。滝の中へ。初めは住職である私が入り、滝の中で観音経を読誦します。水圧が強く、目を開けているのも辛い。
しかし、あえて目を開けて眼の前の景色を見ます。するとどうでしょうか。眼の前の景色しか無いのです。
なにを当たり前のことを言っているのだ?と思われるでしょう。しかし、私達が俗世に生きる時、多くの場合眼の前の景色など見てはいないのです。今ある自分の視界以外のものを常に意識の中にとどめているのです。
一つは他者の視界。他人から見て自分がどう見られているのか。これをしたらどう思われるだろうか。どう見られたいだろうか。
常に私たちは考えていますし、これができなければ世間の中で生きていくことはできません。それは人間が人間である証です。何も悪いことではありません。
次に、今でない視界。この後どうなるだろうか?将来はどうか。昔こういう事やったなぁ。アレは良くなかったなぁ。あの頃は良かった。明日が憂鬱だな。明日が楽しみだ。
これも私達が常に考え、そして考えなければ生きていくことはできません。人間を人間足らしめている能力でしょう。何も悪いことはありません。
しかし、それらに囚われてしまうと話は別です。今起きていることに注意を向けることができず、他者の顔色や将来の不安、過去の思い出にのみ焦点があたってしまえば徐々に生きにくくなってきます。そしてそれは日常の生活の中で少しずつ少しずつ堆積されていく。
私が滝行の中で見た視界は、過去も未来も他者もない。私の視界でした。今日の滝行ではそれを強く意識させれた。なぜかはわかりません。ですが、それは今の私に必要な視点であったのでしょう。きっと、仏のお導きによってこの気づきを与えられたのだと思います。
かつて、私は「滝行は強制的に心身を"今ここ"の場に落とし込む」と言ったことがあります。それは、五感から感じる様々な刺激の奔流によって他のものを押し流してしまうためだと話しました。
しかし、今回は「視覚」。目で見る世界について、文字通り目が覚めるような体験をしました。
今、こうして文字を書いているときでさえ、その時のことを思い起こせば不思議と視野が広がるような思いがします。
滝場にあって、目の前は水しぶきばかりで視界は不良。他者、過去、未来といった視野が無くなっていると思えば視野が狭まっているということもできるでしょう。
しかし、私の見た鮮やかな世界はそれまで見えていても見えていなかった世界です。新しい視界を得たような清々しい心地でした。
滝行を終えると、世界が変わって見えるというのは多くの方から感想として頂いております。
しかし、一度やれば世界が変わってハイ終わりということではありません。何十回と滝行を経験している私でさえ、違うなーと感じるのです。
修行に終わりはなく、一回一回が特別で、何度行っても新鮮で豊かな体験と気づきを得られる。座禅でも写経でも読経でも…どの修行 も同じでしょうけれど、特に滝行は鮮烈に私達にそのことを教えてくれます。
当山では今後も滝行を続けてまいります。もし、自分もやってみたい。または見てみたい。という方は私にご連絡くださいませ。いつでもお待ちしております。
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