令和六年 静岡研修会 建穂寺参拝
当山では、毎年滝行と研修のために静岡の井川へと赴いております。
そこで二日間の滝行と講習を行い研鑽を積んでいるわけですが、今回は二日目の滝行終了後に静岡市にある建穂寺へと参拝いたしました。
「建穂寺」。おそらく、ほとんどの方が聞いたことのないお寺でしょう。しかし、江戸時代には駿河の高野山とまで謳われた大寺院であったのです。
この寺院を私が初めて知ったのは「駿河七観音」について聞いたところからです。
奈良時代、聖武天皇が病に臥せっていた折に、行基菩薩が「駿河の山中にある巨木より七体の観音像を刻み、祈りなさい」とのお告げを得て観音様を彫られ、寺院に安置された。この七体の観音像を「駿河七観音」と呼び、現在に至るまで信仰の要となっているとのことです。
東大寺の末寺で奈良時代が大好きな私はすぐに飛びつき、それらのお寺を調べていくと一つだけ異彩を放つお寺が有りました。それが建穂寺だったのです。
場所は静岡県静岡市の中心部、新幹線も停車する静岡駅から車で20分ほどの場所に位置します。近くには静岡浅間神社などが鎮座し、駿府城を臨む駿河の一大拠点です。駿河国といえば徳川家のお膝元ということで、建穂寺も徳川家から強い信仰を得た寺院の一つです。
興味深いことはこのお寺の創建に関わる伝説であり、なんと白鳳時代に「道昭」が開かれたとされているのです。道昭といえば法相宗の元興寺の僧侶で、唐に渡りかの有名な玄奘三蔵から教えを受け、日本の法相宗の発展に貢献した偉大な僧侶です。
天武天皇や持統天皇からの信頼も厚く、日本で始めて火葬された人物としても知られます。往年には全国を行脚し土木工事などを行ったという伝説があり、この際に駿河の国に寄りたち、観音の霊示を受け庵を作るよう地元の人に呼びかけたそうです。それから月日が立ち、行基菩薩がこの地を訪れた際に、寺院として改めて建立されたとのことです。
これだけでも、奈良時代や南都仏教を学ぶものとしては琴線にこれでもかとばかりに触れてくるのですが、このお寺はその後、真言密教を中心に大いに発展していき、先述のように「駿河の高野山」とまで言われるほどの大寺院となったのです。
しかし、江戸時代の末期になると塔頭寺院も減少し、資金繰りに困るようになったりと衰退の一途をたどり、明治時代の本堂の火災と廃仏毀釈の流行が重なり再建すること能わず。各々の塔頭にあった仏像を何とか一箇所に集めて、以来現在に至るまで地元の有志の方々によって保護されております。
さて、実際にお寺を訪れるとこじんまりとしたお堂。しかし、その入口ではあまりにも立派な仁王様と出会うことができます。駿河一と称され、かつての大寺院の門を守護されていたその威容は現在でも衰えず、眼光鋭くこちらをじっと見つめてこられます。しかし、破損も多く修復の目処がついていないのも事実。
お堂に入ると、多くの目に晒されます。三方を無数の仏像に囲まれたその空間は異様とさえ思える。
その多くはやはり破損が見られますが、その身に宿す迫力は衰え知らず。なんと平安時代の仏像をこれでもかとばかりに拝むことができます。
中でも、東照宮のようなお厨子に入られた弘法大師像は圧巻。
背部には行基菩薩も。
真言密教の寺院であったため、不動明王像も多く、それら護摩を灰を受け深い祈りと信仰を受けられた証が刻まれています。
本尊とされる、先述の七観音の一体である千手観音。通常は秘仏とされ、御前立ちが安置されております。ただ、室町時代頃に火災によって、かつての本尊は焼失してしまったとのことで、新しい仏像が御厨子の中に安置されているそうです。
中にはクラウドファンディングなどによって修復されている仏像もありますが、多くはそのままになっているようです。玉眼を抜かれた痛々しい姿の仏様もいらっしゃいます。
私は仏像を見る時、その資料的な価値を読み取ることはできません。ただ、信仰の証を見るのみです。そうすると、これらの仏像が祈られずに置かれている様子がなんとももどかしくたまらないのです。
同行の信徒の皆様も思いは同じでありました。観音経を読誦し、法楽を行うとなんとなくお堂の中が騒がしくなったような、明るくなったような心地がしました。
このお堂をどのように存続していくのか。私はいつか建穂寺がその信仰を取り戻し、多くの方に拝まれるその日を夢見てしまいます。この記事を読まれ、もし静岡に寄られる事があればぜひ訪ねて、手を合わせてくださいませ。
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