処世界さんの日記(参拾九)

令和二年三月三日



 後夜の悔過


 礼堂には多くの方が詰めかけ、正面には本山の僧侶たちが、北の畳には当山の信徒の皆さまが聴聞にいらしている。女性信徒の方々は局(つぼね)と呼ばれる格子で区切られた外側の部屋にいらっしゃるため中からはどこにいらっしゃるのかわかりません。しかし、見てくださっていることを心に置きながら自身の行へと挑みます。


 内陣にて堂司から一礼を受ける。念珠を擦り、回りながら立ち上がる。差懸を履き、音を立てながら時導師の半畳へと向かう。柄香炉を手に取る。常燈の下から抹香を取り出し柄香炉に盛る。ツケタケにゆっくりと火をつけて柄香炉の抹香に突き刺す。そして半畳へと戻り、まずは三礼。


 この時導師の席である半畳のスペースは独特だ。斜め左に本尊を見やるが、右には衝立があり、南座の練行衆の様子は見れない。完全に佛と行者とが一対一になり、向き合う空間が作り出されている。この時、他の練行衆はもちろん、礼堂にいる全ての人のことも頭から抜け落ちます。


 後夜の称揚は、次第時の後夜と節は同じであるが、始めに「供養文」を省略せずに読み上げる点で異なる。


 一切恭敬 敬礼常住三宝…


 この供養文にはガワ、すなわち他の練行衆が唱える部分はありません。時導師一人で、しかも微音で。隣の人に聞こえるかどうかという音量で、低く唱えあげる。その音は静寂な堂内にゆっくりと染み渡る。その文言は頭の中に映像として記憶している。一つ一つ、丁寧に読み上げていく。不思議と習礼のときのような緊張は無い。今この瞬間に全ての注意を向けているのだ。


 この内陣という空間は祈りのための空間である。その中で今、観音様に向かって礼拝を行っているのだということを実感する。心に喜びが湧いてくるのを感じる。作法も滞りなく行う。ミスが有っても全く気にならない。祈る心があれば自然と体が動くとある練行衆の方がおっしゃられていたと聞いたがまさにそのとおり。


 散華。文言も、動きも間違える。しかし、引きずることはない。今、この時間を大切にすることだけを考える。そして今、この場にいることができるのは私だけの力ではない。本当に多くの人々の助けをもってここにいることができているのだという感謝を噛み締め、観音様の目の前で礼をする。


 そして、すこしでも長くこの場にいようと。称揚はそれができる唯一の機会なのである。どれだけ時間をかけてもよい。通常のリズミカルな声明とはことなり、一句一句を噛みしめるように唱える。さながら瞑想に入るかのような心地で。私の声明に合わせて、他の練行衆もゆっくりと五体投地を行う。一称一礼の作法。まさに一体となって観音様に祈るということを心と体と言葉で感じます。


 この日の私の日記の最後にはにはこう書かれています。「摩訶般若~の時、金色の十一面観音さんを見た。見たとしか言いよう無い。目の前に一瞬現れた。ほほえまれていたように思う」


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