令和二年三月十四日
咒師神所。涅槃講が終わると処世界は咒師に付き従って飯道神社へ向かう。飯道神社の左には神供所と呼ばれるスペースが存在します。何も知らない人は視界にも入ってこないような、なんてことのない場所。しかし、一年のうちで14日の深夜にのみ用いられる特別な場所です。ここで行われる作法は強いて言えば作壇作法に近いでしょうか?諸天を勧請する幣を立て、それぞれに粥など様々な供物を供えます。
私は十年前の仲間時代は咒師さんについておりましたので、見るのは二回目。もちろん具体的な次第はわかりません。しかし、実のところこのときの処世界さんはそれどころではなかった。この作法の間、処世界は咒師の横で蹲踞して控えているのだが、先程下堂後に食事をしっかりと摂ったつけがここで回ってきた。特に蹲踞の姿勢はまずい。下腹部に力を入れて耐えます。
眼の前では咒師さんがムニャムニャと作法をされているが、ほとんど頭に入ってきません。脂汗を流しながら耐えます。すべてをの作法を終えたら、再び咒師さんに付き従い礼堂へ。柄香炉などは急いで元の場所へ置いて素早く…
ちなみにこの作法の間、他の練行衆は休憩で、各々手洗いにいったりしているそうです。後からそれを聞いた処世界さんは何とも言えない感情を覚え、来年からは下堂後の食事は控えようと心に決めました。もちろん、その決意は反故にいたしました。
その後に行われる「咒師日没」「大導師初夜」。本来は時導師を勤めない四職が執り行う時の作法。初めにその文言を見た私は「大導師さんの声明が聞けるのか!?」と非常に楽しみにしていたのですが、この作法ではほとんど省略され声明などはありません。期待していただけに残念な気持ちと、今のは一体何だったんだ?という戸惑いだけが残ります。いや、本当に何なのでしょうか?不勉強のため未だに私は分かっておりません。
総神所。二月堂を囲う「飯道」「遠敷」「興成」の三社を参拝します。初日は二週間のご守護を祈願するため、今回は二週間のご守護を感謝するため。参拝する形は初日と同じです。しかし、その時の心持ちは全く異なるようで、どこか似たものを感じていました。一日はこれから始まる行法への不安や、期待。最後の日はこれから行法を終えて娑婆へと戻ることへの期待と不安。
練行衆やともに参籠する仲間には「このままずっとこうしていたい」と言う人もいます。もちろん、体力的に厳しく二週間を超える行法を行うとなれば全く違った覚悟が必要でしょう。しかし、娑婆世界から離れた場でただただ行に打ち込むことのできる時間というのは何ものにも代えがたい宝玉のような時間です。それが終わりを告げることは、無事満行することへの安堵と同時に、娑婆に立ち向かう勇気が求められます。
最後の灌頂護摩を終えるといよいよ満行下堂。達陀帽を堂童子に預け、牛玉杖を手に二月堂から退出します。もちろん、手水の掛け声はありません。そして、この時だけ処世界は処世界童子を伴い下堂する。
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