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執筆者の写真望月 大仙

権処さんの日記(二拾四)

令和5年3月4日



 昨日は側も心身ともに疲れ切っていたと堂司と話す。翌朝は大導師の部屋のみ娑婆の挨拶がある。「称揚済みましておめでとうございます」と。


 例年であれば、この後に新聞記者からの取材などがある。しかし、現在はコロナ禍のため参籠宿所への部外者の立ち入りは禁じられている。今しか聞けない話というのもあるはず。とてももったいない。


 和上さん、北ニさんから声明についてアドバイスをいただく。テンポの問題や、どうしても頭で考えてしまっている部分がある、と。


 まだ文言を覚えているという学習の段階で、身についているという段階には至っていないということだろう。四年目はまだヒヨッコだ。


 かえって昨夜の後夜はよかったと。しかし、鬼門は半夜である。南無観の音程がかなーり怪しいのだ。これは今後の課題である。


 逆に読経はそれなりにこなせているとの評価。これはとても嬉しい。


 和上さんは「文言を間違えないというのが良い声明ではない」と。かつて、文言を間違えず完璧だと思った時には、あまり良いと言われず。かえって間違えてしまって反省していた時ほど、良かったと言われたと。


 また、本来は周囲の人々に見られ、聞かれているという意識がある。今も観音様は見ておられるが、凡夫としてはその方がわかりやすく気が引き締まるかもしれない。


 しかし、駈士さんは、かえって今のほうが良いと評価された。この方は何十年にも渡って、内陣の外から聴いていらっしゃる方なのでその言葉はとても貴重だ。


 練行衆といえど人。聴聞の方がおられると、どうしても「聞かせてやろう」「カッコつけよう」という意識が生まれてしまう。


 しかし、図らずもそういった外連味がない純粋な祈りが、この聴聞客のいない堂内に生まれた。誰もいない今だからこそ観音様との対話ができるというのはその通りだと感じる。


 称揚のガワについて。呪師さんは新入の時、守屋長老に稽古をつけてもらって以来という。今までの新入の称揚では和上さんと狹川長老が二人で引っ張ってきたが、今年は狹川長老は籠もられないので一人きり。


 なので、稽古をつけたのだと仰るが本当のところは少し怪しいと私は睨んでいる。宝号のところをもっとお稽古しておけばなぁと悔やまれていた。


 日没の行法が終わって処世界に五体投地のレク。称揚を終えた新入は時導師こそ無いが、これからバンバン五体投地が当たる。


 見本として他の練行衆がそれぞれの五体投地を披露。特に中灯さんのはすごい。跳ねるようだ。これは必見。私の五体?そりゃ痺れちまうほど下手くそよ。


 初夜の上堂前。月が太って、ずいぶんと高く上がるようになった。初夜は昨日の称揚と比べられては致し方ないが、夜の行法の頭を務めるのだ。全力で当たらせていただく。


 月が太って初日より高い位置に上がってきている。日々の変化を狭い空に見る。


1時20分下堂





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