昨年の大導師さんは、上司永照師であった。一昨々年、つまり私の初年度も永照師であったため大導師は永照さん!というのが私のイメージであった。
永照師の大導師は力強い。大導師作法では磬(けい)を鳴らすタイミングでは、大導師鈴を手元の箱に叩いてそのかわりにしている。永照師のその音は強く、目が覚めるようだ。一方で今年の大導師さんは優しく叩かれ、作法が落ち着いている。
作法一つとっても、師匠が異なればちょっと力の入れ具合なども変わるのだなと、修二会の作法の色彩の豊かさに少々驚く。これは大導師作法に限った話ではなく、師匠からの伝によって各々微妙に文言やアクセントが異なる。
仏教というのは師匠と弟子の関係性の中で継承されていく特色を持つ。故に単色でなく、様々な色彩を帯びることで全体としての豊かな色を放つ。そこには歴史と言う名の人々の営みが現れているようで、なんとも言えぬ心地よさを私は感じる。
後夜の作法でも「読経」が行われる。初夜読経は4人、後夜読経は南座の3人で行われる。故に必ず当たるのだ。初めてのソロパート。お稽古はできる限りしてきた。しかし、この暗がりの中、間違えずに読むことができるだろうか。一抹の不安を抱えながら臨む。
結論から言えば、間違えてしまった。節を読み違えたのだ。しかもソロパートでなく、3人で読む場所であったので、誰が聞いても間違えたなとわかる。誠に申し訳ない。しかし、残り13日もあるのだ。挽回の機会はある!
後夜が終わると今度は権処さんの出番。今年初めての時導師。次第時では権処が晨朝の時導師にあたる。次第時とは衆之一から順番に時導師を行う事を指し、ここでは一称一礼といって、一回称名するごとに五体投地で礼拝を行う丁寧な作法である。
ここで言う五体投地は、他の寺院でも見られる普通の礼拝方法だ。肘と膝、頭を地につけるので五体投地という。しかし、晨朝の悔過作法は一称が短く五体投地をしている暇がない。故に普段よりも少しゆっくり行う程度のものだ。
別火坊でも散々稽古したのだが、いざ本番になってみるとうまく行かないのが常というもの。立って礼をするのを忘れる、鈴の場所を間違えるなど、本当に四年目かよと思えるほどにボロボロだ。(このミスは国立でも…)
この日は午前2時05分に下堂。3時前に就寝。
令和5年3月2日
汚い話になってしまうが、私はあまりお腹が強くない。ゆえに日中上堂は鬼門だ。この日も、そう行法中にお腹が痛くなる。しかも、日中はまだ次第時。つまり一称一礼。これがお腹にきたのか。脂汗を流し、唇を噛みながら必死に堪える。
後行道で歩いている際など頭が真っ白になっていた。こういうケースは少なくなく、殊に数取り懴悔の日にこうなるともう地獄だ。時導師に当たろうものならミスを連発してしまう。この日は幸いにも最後に大波が去り、無事に終えることができた。
スッキリしたところで日没の時導師。いきなり常の節になるのであるが、常のことなので混乱もなく終える。15時40分下堂。
16時半から18時半まで仮眠を取ることができる。ベリーロングスリープだ。処世界さんは17時には上堂するはずなのでほとんど寝れないだろう。和上部屋はもっとゆっくりできるという。
念のためアラームをかけておいたがその心配はなくスムーズに起床。外に出るとすでに当たりは暗い。この日は気温が低く、空が澄んでいた。ちょうど空には上弦の月が。梅の花と相まって非常に風情がある。こんなにも穏やかな心持ちでいられるのも、参籠宿所にいるからだなと。すでに堂内で準備をしている処世界さんに感謝を。
すでに見物客が大勢詰めかけているが、みな十分に着込んでいる。私にも紙衣という暖かさ満点の武器があるが寒いものは寒いので、宿所の焚き火から離れがたい。とはいえ時間になれば粛々と上堂する。
この日の松明は火の付きが悪く、とても煙が多かった。童子さんが言うには、杉の葉の乾燥が十分でないとすぐに燃えてくれないという。ゆえに、早い日程では煙が多く、後半になるほどにきれいに燃えてくれるそうだ。
私の松明だけでなくこの日はどの松明もなかなか火がつかなかったようで、礼堂でいくら鐘を叩いていてもなかなか皆さん上がってこられない。そういう日もあるのだ。ニコニコのアーカイブが見れるのであれば上七日と下七日の松明のスピードを比較してみることもできるかも?
権処になって思うこと。それは初夜の散華においてハゼが全く気にならないということだ。処世界の頃はこれがたまらなかった。すべてはいて掃除しなければならない。
しかし、権処は実はこの初夜のハゼを掃除しない。ここで修二会の掃除について触れると、行法内での掃除は三回ある。(処世界さんの掃除を除く)
まずは日中と日没の間。次に日没の後。そして半夜の後だ。そして、上七日では「日没」と「初夜」にハゼと呼ばれるお米を炒って爆ぜさせたものを散華行道の際に華のかわりに撒く。小さなポップコーンを撒くと思って頂きたい。
なのでこの半夜の掃除では初夜に撒いたハゼを掃除せねばならない。この半夜の掃除は処世界と、その日の法華懴法に当たっていない平衆の三人で行う。それも他の練行衆が返ってくるまでに行わねばならないので時間制限もある。
あれ?権処さんは?と思われるだろう。そう、権処は鐘をつく。掃除している皆さまを見てまだやってますよと鐘をつき続けるのが権処さんの役割なのだ。ちょっと心苦しい。
この日は処世界さんもまだ新人ということもあり時間ギリギリでの掃除終了であった。手洗の時間をどれくらいとるか和上さんの判断次第でもある。
ちなみにこの日の権処さんは半夜の時導師と晨朝の五体。ここでもミスをして何年やってんだろうかと自責の念。午前1時半下堂。
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