三月十三日
九時半起床。この日は少し遅い。しかし、童子さん達はいつも通り早くから動かれている。凄まじい体力だなぁ。
一息ついていたところに南衆さんが訪ねていらした。お持ちの十一面観音様の仏画を見せてくださる。先日、私が称名悔過において観音様のお姿を思い浮かべながら礼拝していると話したので、わざわざ持ってきてくださったようだ。絵を見ながら称名の一つ一つを確認する。
修二会の法要では称名悔過という形式で行われる。称名とは一般に御本尊様のお名前を唱え、称えることを意味する。みなさんがよくご存知なのは「南無阿弥陀仏」という念仏でこれも称名のひとつ。
そして、修二会といえば「南無観」ですね。ただ、それだけを唱えているわけではもちろんなく、観音様のお姿や持ち物などを高らかに読み上げていくのだ。
また、声明のイメージについて、南衆さんは海のイメージをされていると話された。
特に「光明熾盛」などは波に乗るような節であると感じていると。確かに海からやってきた小観音さんのイメージにぴったりではなかろうかと感じる。
日没もそのイメージで臨んでみようと心に決める。なんだか楽しみだ。御本尊様が見えない分、観想をこらすことが重要になってくるのではないかと私は考える。まさに念仏。こうしなさいという次第は無いため、個々の練行衆に委ねられているのではなかろうか。
この日は神名帳にあたっている。神名帳は北座で行うのだが、なんだか処世界の頃を思い出すようで懐かしい。まだ一年しか経っていないが。
神名帳の始まり。周囲の人が法螺を吹く中、ただ一人壇上を見つめる。神灯が全て輝き、走りの瞬間を除けば最も内陣が明るい瞬間だ。小さな神灯の火が法螺の音色と相まって幻想的に映る。これから諸々の神々にいらしていただくのだという祈りとお迎えの心が自然と出来上がる。大導師さんの発声の後に柏手を叩き神名帳を高らかに読み上げる。落ち着いた心持ちだ。
と、一人で集中しているのだが、なぜ前回と異なりこうも集中できたかと言えば咒師さんを除いて北座に誰もいないからなのだ。練行衆は誰も私の神名帳など聞いていないのだ。なぜかといえばこのタイミングで香水を壇の下にある瓶に入れるためだ。
昨日、若狭井から取ってきたお水は一旦内陣の南東に置かれ、この日に須弥壇の下の瓶に入れていく。これが中々に大変でして、不純物を濾して瓶に入れていく。灯りはジン(火をつけるための松の木)を用いて何人が手元を照らす。ジンの燃えカスが入らないように気をつけるのも忘れずに。
なかなかに時間のかかるもので、神名帳もゆっくりと唱えあげる事ができる。私にとってはよい行の時間になった。
達陀では交代に失敗してしまう。順番を間違えてしまったのだ。「あれ?交代じゃないの?」と戸惑っている中灯さんの目。これは大変に申し訳ない。達陀は本当にその場その場での即応性が求められるのだ。
三月十四日
肌寒い日が続く。童子さん方も心なしか表情に余裕が見える。今日も咒師さんは予習に余念がない。見習わねばならない。
日記はここで途切れている・・・
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せっかくなので、修二会で行われている称名悔過の中で、観音様のお姿を表す部分を紹介しましょう。お姿の描写については基本的に玄奘三蔵訳出の『十一面神呪心経』に基づいているとされます。
東大寺蔵 二月堂曼荼羅より
「南無十一面大悲者」
十一面観音は大悲者である。大慈悲者とも言い、慈悲のとても深く、私達をお救いくださる菩薩行に励まれる観音様を表す呼び名です。
「南無当前三面慈悲相」
十一面観音はその名の通り、十一面の菩薩の顔をお持ちの観音様です。正面の三面は慈悲のお顔。優しい微笑みの顔をされています。観音様のほほえみを見ていると、不思議と私達の心も浄化されるように思えます。
「南無左辺三面瞋怒相」
左の三面は怒りのお顔。甘い顔ばかりしていては救えない凡夫もいます。私もその一人。しっかりと叱っていただき、修行へと邁進いたします。
「南無右辺三面白牙相」
右の三面は白い牙を剥き出しにしたお顔。悪鬼邪気を払う意味合いがあるそうです。
また、こちらから見て左側になることから、左道の行い、すなわち理に反した行いを破する意味合いともされます。
玄奘訳の経典には「白牙上出」とあり、険しい顔で上向きに牙が生えているお顔。また、『十一面観世音神呪経』には「菩薩面狗牙上出」とあるので菩薩の柔和なお顔に狗の牙が上に生えていると。二月堂の観音様は一体どちらなのでしょうね。
「南無当後一面慕咲相」
後ろの一面は経典によって言い回しが異なりまして、先述した玄奘三蔵訳では「暴悪大笑面」とも言い、衆生の愚かさや煩悩を吹き飛ばす。修二会の次第では「慕咲」と漢字をあえて違えて表記されていますが、本来は「暴笑」でしょう。
「南無頂上仏面願満足」
「南無頂上仏面除疫病」
十一面観音と言うが、実はお顔は十二ある。頂上の一面は正法明如来と如来様のお顔なのでカウントされません。他の十一面とは髪型が違って螺髪のお姿なのですぐに見分けがつきます。
「南無諸頭冠中住化仏」
十一面観音を始めとして、観音菩薩は頭上に化仏を頂いている。多くは阿弥陀如来である。当山本尊の不空羂索観音菩薩も例に漏れない。恥ずかしながら知らなかったことだが、十一面のそれぞれのお顔に化仏が配されているのだ。そのため諸頭なのだなと。しかし、仏師の方は大変そうだ…。
「南無左紅蓮華鍕持手」
蓮華は仏教において悟りや智慧の象徴ですが、紅蓮華というと「慈悲」を象徴します。そして、「鍕持」は十一面観音の持ち物の特徴で、水を出す口のついた水瓶を指します。
水を注ぐことから私達の煩悩や怒りの炎を智慧の水をもって消してくださるのです。心に怒りの炎が芽生えた時、十一面観音様の御真言をお唱えください。
オン マカキャロキャ ソワカ
「南無右挂数珠施無畏手」
右の手は手首に念珠を掛けており、施無畏印(人々の恐れの心を除くことを示す手の形)であるということ。
念珠をかけるのは玄奘訳のみなので、他のお寺の十一面観音像でも念珠を掛けている作例は多くない。他の経典では「瓔珞施無畏手」とあり、多くの観音像では腕輪や天衣(てんね)を掛けてることが多い。
また、密教では不空訳の経典から四臂の姿を採用することもあるようです。
「南無衆宝瓔珞荘厳体」
「南無無量神仙所囲繞」
身上を装身具で飾り、多くの神仙に囲まれている。如来と異なり、菩薩様はその身をきらびやかに飾ることがあります。これは未だ修行が完成していない証であり、一方でそれだけの神通力を持っているということを示します。そして、仏教を修行している仙人たちが周囲に侍っている。これは他の観音でも同じような表現がなされています。
「南無大慈悲説根本等呪」
「南無利益安楽諸有情」
大慈悲を持ってこの根本の大いなる神呪を説かれ、すべての生きとし生けるものを利益して安楽をもたらす。
実はこの根本呪ですが少々長いためにすべて唱えることはないのですが、抜粋した一部を後行道の際に唱えております。
修二会の声明の中でもこの部分は「南無観自在菩薩」の宝号の前に唱えられる部分で、集中力も最高潮の達しようという力強さの中で唱えられます。ぜひ、観音様のお姿を心に思い浮かべながら聞いてみてくださいませ。
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