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権処さんの日記(一)

 令和四年十二月十六日



 今日も今日とて、やってきました東大寺。今回も例年どおり14日に二月堂で行われる千遍礼拝こと「仏名会」から奈良に入っております。仏名会は仏様のお名前を唱えながら千回五体投地を行う法要ですが、今年は足のケアを怠ったために翌日以降は筋肉痛に悩まされました…(汗)


 前年までは、法会が終わってから走って上醍醐にお参りに行ったり、温泉でゆっくりと足をほぐしたりと、自分の時間を過ごしておりましたが、今回はホテル尾花さんにて恒例の講話会と聴き込み寺、朝参りの会を開いていたこともあり、そこまで気が回らなかったのが原因でしょう。この反省は来年に活かしたいですね。


 さて 前回の処世界さん日記では令和2年の修二会についてお話しいたしました。 それから3年の月日が経って、今回は4度目の参籠(さんろう・修二会に参加すること)に臨むお話をしていきます。 しかし、ブログに書き起こさなかった 2回の修二会も一筋縄には行かないものでした。


 令和3年の修二会は皆様もご存知の通り、 この1200年でも前例のない修二会でありました。 新型コロナウイルスの感染対策のために、聴聞の方は一切受け付けず、加えて参籠する練行衆は2週間のホテルでの隔離を余儀なくされました。


  この2週間のホテル隔離 は、多くのことを 私にもたらしました。 そのうちの1つがこのホテル尾花さんとのご縁です。 奈良の修二会ファンの方はご存知のことでしょうけれど、ここ3年間の修二会において、ホテル尾花さんには大変お世話になりました。


  それまで、 私は奈良で これといった活動をしてきませんでした。 もちろん東大寺にて法要に出仕したりといったことはありましたが、奈良の人と触れ合ったり話し合ったり ご縁を紡いだりそういったことはなかったのです。そのような場を得ることができたことは、私にとっても参加された皆様にとっても本当に有意義なものになりました。改めて感謝です。


 さて、今回の奈良の訪問における一大イベントは開山堂で行われる良弁忌の前にある練行衆(れんぎょうしゅう・修二会に籠もる僧侶)の発表です。練行衆の決定は華厳宗の管長が行うことと決まっております。誰を選ぶのかはその年の状況によって変わります。末寺の僧侶は基本的には志願制になりますが、いくら出たいと訴えたところで指名されるかは定かではありません。


 また、二月堂には「二月堂服忌令」というものがあります。「服忌令(ぶっきりょう)」とは喪に服す期間が記されたものです。これにより死穢を忌む期間が定められ、その間は神社への参拝や祝い事を控えます。一般には四十九日などが知られていますが、こちらはより厳格に定められています。


 例を挙げると

 父母 忌 五十日

    服 一年

 兄弟 忌 二十日

    服 三月

 といった具合に、忌中と服中の期間が示されます。気になる方は個別にお尋ねくださいませ。


 この服忌令に該当する場合は修二会への参籠はできず、参籠の候補から外されます。これは修二会が仏教の行事であると同時に、神名帳を始めとして神事の側面を含むためでしょう。加えて行中は何度もお祓いを行い、常に身を清めることや、紙衣を身にまとってからの徹底した汚れとの断絶には、身を清浄に保つことにどれだけ心血を注いでいるかを見ることができます。


 そして練行衆として指名されたとしても、参籠までの間に不幸があり喪中になった場合は参籠はできなくなります。そのため候補者の中から代わりの練行衆が指名されます。また、二月堂への参拝についても結界が張られて以降は基本的にこの「服忌令」に従いますので、見舞いや聴聞にも伺えません。ただし最終日には結界が切られますから、その後に服者の挨拶といった作法があります。喪服の者は処世界部屋にて練行衆に挨拶するというものです。


 また、この服忌について厳格に守ることは「松明」にも影響した歴史があります。修二会は炎と闇の行法とNHKにも題されたように、暗闇を照らす火の明かりが強く印象付けられる行事です。その中でも多くの場面で活躍するのが「松明」になります。


 修二会の松明というと、皆さんはすぐに「お松明」のことをイメージするかもしれませんが、実はそれ以外にも様々な松明が用いられます。



 例えば手にもつサイズの松明が多用されますね。チョロ松明なんて呼ばれています。最も際立つのは晨朝の後の下堂の一幕ではないでしょうか。「チョーズチョーズ」と言いながら松明を伴って練行衆が階段を駆け下りる姿は欄干から眺めると不思議な行軍に見えるのではないでしょうか。



 他に有名な松明として「達陀松明」があります。達陀(だったん)とは3/12、13、14に2月堂内陣で行われる不思議な行事で、3メートルほどの大きな松明を国宝の木造建築の中で振り回すという他に類を見ない作法です。


 来年以降聴聞される方はぜひこの不思議な儀礼を視て感じて頂きたいですね。そして一緒に煙に巻かれましょう。マスクをしても無駄です。目にも来ます。

 

 この達陀松明に用いる松明を昔から寄進してくださっているのが「伊賀一ノ井松明講」と呼ばれる講社の方々です。


 講社とは、寺社に集う在家信徒の団体を指します。全国の寺社には様々な講社がありますし、その目的も多種多様です。


 二月堂には多くの講社がありますが、その中でも「圓玄講」(えんげんこう)と呼ばれる講社がいくつか存在します。圓玄講とは修二会にまつわる様々な寄進を行う講社のことで、松明のみならず油や藤蔓、さらに警備のための人員などを提供します。


 この「伊賀一ノ井松明講」は現在の三重県名張市にあった「一ノ井村」を中心にしたものです。この土地はかつては東大寺の荘園であったそうです。東大寺の寺領すごいですよね…。


 この土地の人々は信心深く、古くから修二会へのご寄進を続けてきました。そして、いつしか松明のための木材を寄進することになります。


 これは村民たちの手によって続けてきましたが、近世になると戦国武将である藤堂高虎を初代藩主とする藤堂藩の領地になり、それ以降も松明の寄進は継続されました。藤堂藩は一ノ井村へ援助金を出したり、時には村に代わって檜を購入して奉納するなど主体的に松明の奉納に関与することとなります。


 ここでようやく話は服忌令に戻るのですが、藤堂藩に服忌者が出た場合は東大寺に連絡した上で松明の奉納を取りやめることがあったのです。例えば藩主が逝去した場合などがこれにあたります。これは藩主が亡くなったためそれどころではないということではなく、やはり二月堂修二会が服忌に厳しかったことに由来しているとされ、奉納が行われなかった場合は翌年に二年分の松明が奉納されました。


 このように、二月堂における服忌を忌避する姿勢は練行衆に限りません。だからこそ、練行衆も別火から始まる厳しい制約の生活にも耐えるのです。


 また、童子や仲間を始めとした参籠者も全員もれなくこの服忌令にしたがって参籠の是非を判断されます。参籠衆は総勢39名。選出が一筋縄にいかない年も多くあったそうです。


 さて、令和五年の修二会に臨む私自身も幸いにも参籠資格を有して練行衆発表にこぎつけることができました。例年の如く、寺役前に僧侶が一堂に会します。


 今年度は橋村公英管長からの発表を受けます。昨年は管長就任前。和上として指名を受けた橋村師が、一年後には管長猊下として読み上げる側へ。


 伝統行事というのは皆、そうなのでしょうけれど、この修二会は1200年前から変わらずにあるということではなく、常に新陳代謝し続けてきた生き物のように感じられます。


 指名の読み上げは各寺院名で呼ばれます。昨年までは11番目に呼ばれていた「普賢光明寺」。それが今回は10番目。権処世界としての指名を受けることとなりました。


 処世界には上司永観師がその役に就きます。(ちなみに、まだ住職でないため慣習的に「永観房」と呼ばれます)今回の和上(戒を授ける役職で、現在は行法の総責任者)を務められる上司永照師のご子息です。まだお若い方なのですが、その僧侶としての知識量や心構えは私も深く尊敬しております。


 たかだか3年早く入っただけで先輩面することなどできるはずがありません。むしろ、私自身が学ばせてもらうような気持ちで臨まねば!と気を引き締めます。



 寺役を終えると私は永観師にあるものを手渡たさねばなりません。それは「処世界日記」です。もとは江戸時代の日記で、それを上司永慶師が書写したものです。以降、代々の処世界が手にし、常に袖の下に入れ続けたその日記の端々はボロボロでいつ破けてもおかしくないような状態です。


 しかし、何十年分の二月堂内陣の煤に塗れた日記は、練行衆がたしかに受け継いできたものでもあります。これを次の練行衆へ渡すことができるのは、その流れの一部になったような気がして、なんとなく嬉しいような誇らしいような、それでいて少し名残惜しいような気がしました。


 そんなもんだからいざ手渡す時には「ようやくこれを渡せて清々しましたよ」とちょっとおどけたようなことを言ってしまったんですね。逆に恥ずかしいなぁ。


 こうして、処世界さんは次の処世界へと受け継がれ、晴れて私は権処さんとしての修二会を体験することになったのです。


【参考文献】

饗庭早苗(2018), 東大寺二月堂修二会と講社, ―一ノ井松明講を中心に―, 日本女子大学大学院文学研究科紀要, 25, 73-89


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