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執筆者の写真望月 大仙

処世界さんの日記(拾壱)

令和二年二月二十日(後編)



 十七時頃に夕食。しかし、この夕食は今までと異なり自室で一人。院士さんが部屋の前までご飯を持ってきてくださる。もちろん結界があるため中に入ることはできない。


 今まではちゃぶ台の上で院士さん達の近くで食べていたところから一転、急に扱いが変わり何だかむず痒いような寂しいような。しかし、一人で食べても美味しい院士さんのお料理と大炊さんの白米。おひつが一つそのまま渡されたので、これは遠慮なく食べる。


 ちなみにこの日からは同じお箸を使い回す。食べ終わったら、お茶でお箸をすすぎ拭ってから、後年帯を包んでいた紙で作った箸袋に入れる。こういった細かいところでも清浄さを保つ作法が見られる。もちろん、私はそんなことは知らないので、箸は食器と一緒に下げてもらい、翌日の朝ご飯になって箸がないことに気づくのだ。


 十八時頃になると練行衆が集まり始める。ふすまごしに準備している物音を聞きます。新入はその間、特にやることはない。何故ならばすでに総別火に入っているから。


 基本的に修二会のための個人的な準備は試別火のうちに済ましておき、総別火では声明のお稽古などがメインになるのである。しかし、今は声を出してお稽古をするような状況ではない。暖を取るための火鉢の炭をいじりつつ、ただ一人時がすぎるのを待つよりほかないのだ。時折、他の練行衆が顔を出しに来てくださるのが本当にありがたかったです。


 十九時。練行衆の顔合わせ。大広間にて行うが、新入は除外されます。これは翌日に改めて挨拶を行うというイベントがあるためです。とはいえ、ふすま一枚隔てているだけなので、和上さんのご挨拶に聞き耳を立てます。


 新型コロナウイルスの脅威が徐々に迫ってきている中での修二会。この時点では俗世と隔離されていた私にとって全く実感のわかない事柄でありましたが、いよいよ全ての行者が揃い、多くの祈りを受ける不退の行法が動き始めたのです。


 ここで、別火坊の間取りについての解説を行います。図は戒壇院の庫裏の北側のみを大まかに図化したものです。



 新入の諸世界が初めに生活しているのは北衆の部屋(正式な名前ではありません)。

 15日から20日の総別火入までの間、新入はこの12畳を専有することができます!広い!


 通常の試別火であれば「咒師」「堂司」「北衆之一」「北衆之二」「中灯」「処世界」が生活するスペースです。

 北衆の部屋と言いつつ、方角的には戒壇院の庫裏の南に位置しておりますが、大広間があるためこの部屋には直接費が当たらない。昼間は少し肌寒く火鉢が手放せません。

 そして、南の部屋よりも人数が多いため少々手狭。



 20日からは新入は上段の間に移動。ここは上段というように段差があり、広さはそれぞれ4畳。段差の上には布団を敷き、下の段で日中は過ごすといった塩梅。狭くなったとはいえ一人で使うには過分な広さ。しかし、総別火に入った練行衆はゴザの上でしか座れない。座って半畳の上にいるのだ。食事もここで行う。

 ちなみに上段の間は、通常時では総別火に入った和上、大導師がお休みになる部屋です。そして、改修前は隙間風が最もよく入ってくる部屋として有名で、私より前の新入たちは身を震わせていたとか。


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