令和二年二月二十一日(後編)
この日から新しい作業が加わった。そのための紙を中灯(ちゅうとう)さんからいただく。中灯さんは修二会における書紀の役割。そのため紙を常備しており、なにか不足があったときなどは中灯さんから紙をもらうのだ。
修二会に於いて「紙」というのは非常に重要な要素です。紙衣はもちろんのこと、差懸に用いる仙花紙。様々な袋や時数表と呼ばれる修二会の配役表に用いる傘紙。牛玉札に用いる特別な紙。そして御札を包む奉書紙。食器を拭ったりご飯を包む椀拭いは半紙のような紙。このように多種多様あるのですが、修二会初参籠の私としては何が何やら…。
その中でちょっと立ち位置が特殊な紙がありまして、それは中灯さんが修中日記を書くための紙というのがあります。他とはちょっと毛色が違う紙。その紙を用いて処世界あるものを書かなければならない。そう、『処世界私日記』です!
このブログのタイトルの元になっているこの私日記は江戸時代に書かれたものを歴代の練行衆が書写してきたものです。原本は東大寺図書館に収蔵されており、享保十二年、今から300年前に書かれたものです。そして、今の処世界たちが写しているのは昭和五十六年に上司永慶上人が大導師の時に別火坊にて写されたものです。最後にはその署名と、写した当時の練行衆の名前が記されています。(和上・守屋弘斎上人~処世界・清水公庸上人)
それ以来、毎年処世界が袂に入れて使い続けた日記はすすと抹香に汚れ、今にも千切れそうなほどです。その処世界私日記は私が練行衆に任命された際に、前回の処世界であった清水公仁さんから託されました。それは今にもばらばらになってしまいそうで受け渡された私は取り扱いに苦慮したものです。今も私が預かっているので、早く次の処世界へとバトンを渡したいなぁと笑
早くバトンを渡したい反面、処世界という役職に愛着を抱いていることにも気づきます。今までの練行衆の皆さんも同じ思いだったようで、二度とやりたくないと言いつつも、掃除の仕方や箒の使い方など並々ならぬこだわりがあるとか。特に処世界の先月が長かった方はその傾向が顕著とのことです。それだけ練行衆にとって特別な役職なのです。
その特別さを顕著に表しているのがこの処世界日記です。40ページから成るこの日記は三月一日からの処世界のありとある仕事を網羅しています。(今では処世界の仕事ではない記述もあります。時代が進むについれて、他の練行衆に役どころが変更されたりしております。)
もちろん、私もこれを書写しなければなりません。写経のようなものですね。これがなかなか時間のかかる作業ですが、心を集中させるのにこれ以上の修行はありません。写経を行っていると、ふとした時にやはり他のことを考えてしまう。そうすると字を間違えたり、書くべき部分を飛ばしてしまったり。集中していないことが如実にわかってしまうことはなんとも嚴しい。
時間は十分にあります。ふすまの向こうからは他の練行衆の作業する音が聞こえてくる中、一人部屋の端で黙々と筆を走らせる。
この日の午後には社参があります。練行衆は寺内の社を巡り、修二会期間中の無事息災を祈念するのです。別火坊を出発すると、すぐ近くの八幡殿、次に大仏殿は門の外から。聖武天皇の祀られている天皇殿、開山堂と移動し、最後には試みの湯。何とここで入浴である。本行中にも用いる湯屋での入浴で、別火入りの前に身を清めるためであると言われています。
まぁ、新入は何をしているのかといえばお留守番ですね。行ってらっしゃいと、皆さんを見届けたあとただ帰りを待つのみ。いつかえってくるかなと縁側で耳を澄ませて待ちます。というのも、この社参中に何箇所かで法螺を吹く作法があるので今どこを参拝しているのかが分かるというのです。
法螺を吹くのは大仏殿の東の石段、鐘楼の南、四月堂の側、閼伽井の前の四箇所。加えて試みの湯の後に登廊の石段の下でもう一吹き。二月堂から聖武天皇陵を拝した後に、また別火坊に帰ってくる。この時、大仏殿の北西で最後の一吹き。
13時40分頃から「聞こえないかな?」などと縁側の日の当たるところで呑気にしておりましたが、残念ながら修二会で用いる小法螺ではそこまでの音は出ないようで全く聞こえず。砂利道を踏みしめる音で皆の帰りに気づき慌てて自室に戻る処世界なのでした。
14時過ぎに帰ってきた練行衆から、広間で挨拶を受けます。このときも新入は部屋からは出ず、テシマの上に座り、ふすまを開けてご挨拶。なんだか特別扱いされすぎてむず痒い気分になるが、総別火入りして紙衣を纏った練行衆はそれだけ尊重されます。逆を言えば、それだけ制限が多い状況とも言えます。
この日のお風呂は一番風呂。そう、和上さんよりも早い!そうなるとお風呂の時間はかなり早く、15時頃に入らえんばなりません。それから練行衆の上から、そして三役、仲間と順々に入浴していきます。この時の衣体は紙衣の上から湯屋小袖を羽織ったもので、テシマを持って行きます。
紙衣を着ているときは必ずテシマ(ゴザ)の上。着替えをするにもテシマの上。テシマの上に紙衣を置いたら一時的にその制限は解除されます。(でないと風呂にも入れません笑)入浴を終えたらとっとと自室に戻らにゃならぬ。次の練行衆が控えているのです。(次は和上さん)
あわてて再び紙衣を纏い自室に帰って座ろうとすると、なんか忘れている。テシマがない。着替えの時に足元に敷いてそのまま出てきてしまった。仲間さんがお忘れ物ですよと持ってきてくださるが、なんとも不思議な生活であることだなぁと何度目になるか分からない感傷に浸る。
八時になると奈良太郎の鐘がなる。すると北衆の部屋に集まり声明のお稽古が始まります。南座の練行衆は読経のお稽古が終わり次第参加。新入は基本的に不参加なのですが、修二会の声明に耳を慣らしたいがために聴聞に参加。もちろんテシマ持参。
まぁ、まったく分からない。特に晨朝。非常にテンポが早く次第を観ながらでも何を行っているのか全くわからないといった有様。はたして本行でついていけるのだろうか?と不安になる夜を過ごすのでした。
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