令和二年二月二十六日
以前に私が書写した処世界日記の画像をアップしたのを覚えていますか?しっかりと和綴じ風にして丁寧に作ってあるんですよ。いや、そんなことは全然しなくて良いのですが、変なところに凝りだしてしまいましてね。
この日の朝はようやく書き終わった日記にキリで穴を開けて、せっせと見様見真似で綴じていたわけです。出来上がってなかなかの出来なのでは?と先輩に見せたところ「君は器用なことするなぁ。」と完全に呆れられてしまう。
そんなことしている暇があったら声明の稽古をしろということでしょう。全くもってごもっともな話です。ちなみに、この処世界日記の内容は3月1日から。このブログも本行に入ったらその内容と実際の動き、私が何を見てどう感じたのかを綴っていけたらと思っております。
というより、それが書きたくてこの日記を始めたのですし、読まれている皆さんもそれがお目当てでしょう?ただ、今は本行に向けてワクワクしつつも、何もわからない不安の中にいる処世界さんの気持ちに共感してもらいながら読んでいただければなと思います。
この日のお昼が終わると席定め(せきさだめ)がございまして、こりゃなにかというと明日以降の大広間で練行衆が座る席を決める儀礼です。
すでに練行衆が大広間のどこに座るのかは決まっておりますが、改めてここで席位置を示し、それを堂童子が書き留めるといった一連の流れを行います。とはいえ、やることはそれぞれが座るだけ。
それが終わると社参でございます。和上を先頭に練行衆が東大寺内の各社に参拝にでかけます。そして、本坊にて娑婆(しゃば)に残る、つまり参籠しない僧侶たちに暇乞いの挨拶をします。翌日からは総別火に入るため、別火坊から出ることも叶わなくなります。
そうなれば寺内の仕事は全くできなくなり、残された僧侶たちに仕事を任せねばなりません。そのため、ここで改めて挨拶をし後事を託し暇乞いをするわけです。つまるところ末寺には全く関係のない話ではあります。
さて、そんなことが行われていても処世界さんはひとりお留守番。別火坊から出れない生活が続きますが、久しぶりに悠々自適な時間。お風呂も私だけなので本当に気兼ねなくのんびりと出来るのです。(この日記、お風呂の記述が多いのですがそれが楽しみになる生活ということですね)
というのもこの日は「捨火」。古い火(それまでの生活)を捨て、翌日から新しい火(清浄な生活)を入れるのです。社参の終わった僧侶は各々自坊に帰り、家族との団らんを楽しむ事ができるのです。この日に限っては、娑婆の火にあたり食事をともにすることを許されております。
末寺の僧侶はどうするのか?というと、今回(2020年)の「衆之一」、「南二」さんは奈良にお住まいなので華厳寮にてご家族が持ってきてくださった料理をご一緒に食べられたそうです。
一方、別火坊には院士さんの他に駈士さんも残られています。三役の中でも駈士さんは遠方から来られているため毎年残られるそうです。せっかくなので、密教について様々なお話をさせていただきました。かなり興味深い話が多く、練行衆もほとんど知らない修二会の作法についての考察など駈士さんならではのお話が…。
ちなみに私のような遠方の末寺の場合は院士さんたちが腕をふるってくださいます!やはり食事は自室で行いますが、いつもは仲間さんが食事を運んでくださりますが不在のため院士さん・小院士さんが運んできてくださりました。試別火以来の院士さんたちとの語らいに心もほぐれます。
練行衆たちは初夜(十九時)には別火坊に戻ってきまして、そこからは練行衆だけでなく三役仲間みんなで集まっての懇親会が始まります。これから先、皆が集まって歓談することはありません。なので、この時は大いに楽しむのです。
かつてはこの時にそれぞれが持ち寄った古道具の競りなどが行われたそうです。これも仲間や童子さんへの心配りですね。塔頭の持ち寄るお道具には私も大いに興味があります。練行衆の中にはこの日のために骨董屋から仕入れた方もいたとか。
ただ、近年は徐々に出される古道具のグレードが下がり、遂にはその風習も消えてしまいました。この日記でも大いに参考にしています1996年発行の小学館『東大寺お水取り 二月堂修二会の記録と研究』には「持ち寄った古道具の入札をしたりして楽しいひとときを過ごす。」という記述があるので、少なくとも25年前まではその風習が残っていたのではないでしょうか。
え?処世界さんは参加できるかって?出来ませんよ。だって、総別火に入る前の宴会ですよ?総別火に入っている練行衆が参加するのはおかしいじゃないですか。あぁ、来年はあそこに加わりたいものだとしみじみ思う処世界さんなのです。
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